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東京都練馬区 |
いわさきちひろ絵本美術館 |
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名称変更 ちひろ美術館・東京 |
1994年6月 |
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今回は、下石神井(シモシャクジイ)の静かな住宅街にある「いわさきちひろ絵本美術館」を紹介します。 西武新宿線の西武新宿駅から11番目の上井草(カミイグサ)駅を降りて、北に2分ほど歩くと上井草駅入口の交差点に出ます。右に曲がって千川通り(センカワドオリ)沿いに行くといわさきちひろ絵本美術館への案内板が出ていますので、左、右、左と曲がって行くと美術館に到達します。上井草駅から7分ほどで行けます。 いわさきちひろ絵本美術館は、いわさきちひろの絵の印税とちひろの絵を愛する人々の寄付によって、1977年に開設しました。武蔵野の面影を残す静かな住宅街にあり、ちひろが1952年から1974年、55才で亡くなるまでの22年間をここで過ごし、数々の作品を生み出した場所です。 玄関を入ると、庭には額紫陽花が美しく咲き、白い椅子が置かれています。美術館の中は迷路のようですが、順路に従って鑑賞すれば迷うことはありません。美術館には7千点の原画と資料が収蔵され、約2ヵ月毎にデーマを変えて作品が展示されています。今回は、「ちひろのアンデルセン」展でした。 企画展示に関連した特別番組などを見ることのできるビデオルームやちひろの絵本や画集、内外の代表的絵本を画家名で、50音順に並べられている図書室があります。子供達が床に座り込んで絵本の世界に浸っています。小さな子供や赤ちゃんを連れた人たちのために、赤ちゃんライブラリーもあります。3階には、見晴らしのよいティールームです。1階のミュージアムショップは、若いカップルや女性たちで賑わっています。ちひろのアトリエの様子も再現されています。ちひろは左利きであったので、机も右側が窓になるように配置されています。 いわさきちひろは、1918年12月15日福井県武生市(タケフシ)で生まれましたが、翌年東京に移り、14才で岡田三郎助に師事して、デッサンと油絵の勉強を始めています。20才の春に結婚し、満州に渡りますが、冬には、夫の自殺により、帰国しています。23才から再び油絵を描き始めました。 第二次世界大戦のときには、母の実家である長野県松本市に疎開しています。敗戦を境にちひろの生活は一変します。武者小路実篤の「幸福者」や宮沢賢治の本を読む日が続きました。秋も深まるある日、松本の町を歩いていたときに目にはいった日本共産党演説会の一枚のポスターがきっかけとなって、「二度と再び戦争を起こしてはならない」という一念から、自らの意志で、1946年27才のとき長野県で共産党に入党しています。その後上京して人民新聞の記者になっています。そして日本共産党宣伝部の芸術学校に入学し、赤松俊子(丸木俊)にデッサンの指導を受けています。丸木俊については、原爆の図で有名な丸木美術館のところで紹介したいと思っています。このころちひろはどこへ行くにもスケッチブックを手から離さず、暇さえあれば路地裏で遊ぶ子供達をスケッチしていました。 1949年神田の共産党の支部会議の席上で「僕は一生お金のたくさん入るような仕事にはつかないつもりなんです」という東京大学を出たばかりの青年、松本善明氏と出会い、1950年31才のちひろは、23才のこの青年と結婚しました。翌年男の子「猛(タケシ) 」を生んでいます。でも、職もなく司法試験の勉強に打ち込む夫のために、ちひろは、生活のすべてを筆一本で支えなければなりませんでした。子供を信州の両親に預けて、夫とも別居して仕事に打ち込みました。1952年に現在の美術館のある場所に、家族一緒に暮らせる家を建てました。その後夫の善明氏は弁護士になり、1966年には、衆議院議員になっています。先日、細川元首相の喚問を共産党として行なっていたのが松本善明氏です。 ちひろは、「花と子供の画家」と言われるように、花がほんとに好きでした。ちひろが描いている四季折々の花は、バラ、すみれ、チューリップ、スイートピー、あやめ、紫陽花、朝顔、桔梗など80種類以上になります。ちひろの自伝的絵本「わたしのえほん」の中で、次のように書いています。 その日、焼け残った神田のブリキ屋さんの二階の私の部屋は、 花でいっぱいでした。私は千円の大金をぜんぶ花にしてしまっ たのです。あとはぶどう酒1本ときれいなワイングラス2つ、 これが四面楚歌のなかでの2人だけの結婚式でした。 ちひろはアンデルセン童話の美しさに深く共鳴し、毎年のようにアンデルセンを描き続けました。ちひろとアンデルセンは美しい夢をリアルに描こうとした点で、同じ魂の持ち主であったといえます。しかし、「マッチうりの少女」、「にんぎょひめ」、「あかいくつ」に見られるように、神を信じ、死をひとつの救いとも考えたアンデルンに対して、ちひろは人間を信じ、どんなに苦しくても生きることに価値があると考えていた点が違います。 また、晩年ちひろは、「大人というものは、どんなに苦労が多くても自分の方から、人を愛して行ける人間になることだと思う」といっています。「未熟であった若いころの自分には戻りたくない」とも言っています。自分の成長を感じているからこそ、このように言うことができたのであると思います。 現在、善明氏は再婚されて、別の所に住んでいますが、東京芸大を出た息子さんは、事務長の奥さんと4人の子供と美術館の横に住んで、副館長として美術館を取り仕切っています。 (永瀬義郎資料室)
西武池袋線の石神井駅の近くに、日本創作版画のパイオニア永瀬義郎(ナガセヨシロウ)の資料室があります。ちひろ美術館から歩いて行くこともできますが、上井草駅入口のバス停まで戻り西武バス石神井公園駅行きバスに乗る手もあります。石神井公園駅のバス停から西に200mほど行った最初の四つ角を右に曲がり進んで行くと踏み切りがあります。そこを渡って100mほどのところの右手にクリーニング屋がありますのでそこを右に曲がると右側に、永瀬義郎資料室・ギャラリーネオアカシアがあります。少し分かりにくいので迷ったときは、住所を頼りに見付けなければなりません。この資料室のある場所は、永瀬義郎が晩年ここで暮らし、制作したところです。現在は個人美術館としては開館していませんが、訪れると気軽に作品を見せてくれます。 永瀬義郎は1891年1月5日茨城県に生まれ、東京美術学校彫刻科に入学しましたが、中退し、京都絵画専門学校に移っています。裕福な家に生れながらも生涯富には恵まれず、一時は貧の底に身を置くこともありましたが、作品をみるとそんな苦悩は微塵も表れず、生に対する前向きな態度が伝わってきます。義郎は晩年に至るまで自由奔放に人生を歩んでいます。作品には、彼にとって永遠のテーマであった女性への賛美が絶えず描かれています。彼がいつくしんだ女性は生命力といった根元的な姿に昇華され、描かれています。 1953年62才のとき三人目の妻であり、30才以上歳の若い照子さんと同棲し、翌年男の子「薫」が生まれています。「人生は正にバラ色」と言いつづけて、1978年87年の生涯を閉じるまで精力的な制作活動をおこなっています。 義郎は、浮世絵版画では表現できなかった裸婦の美しさを、抽象的な女体として版画の世界に初めて創出しました。彼の作品「抱擁」は、警察から風紀を乱すということで、版木を没収されたということです。「もの想う天使」は82才のときの作品です。1987年銀座ミキモトで「永瀬義郎回顧展」が開催されたとき、美智子妃殿下がお忍びで観覧された作品でもあります。また、義郎は版画の指導書「版画を作る人へ」を表しています。この本で版画を志した人々は多くいます。この指導書に感銘を受けた魯迅は、日本人で最初に永瀬義郎を中国に紹介しています。 妻の照子さんと息子の薫さんは、現在画家として活躍されています。この資料館を訪問した時、薫さんから説明を受けることができました。10月には、義郎の生まれ故郷である土浦で永瀬義郎版画展を開催するので案内状を送ってくれるとのことです。 石神井公園駅から2つ目の中村駅のすぐ近くの公園の中に練馬区立美術館があります。常設展の他に、企画展も開かれています。「日本近代版画の歩み展−−永瀬義郎と大正・昭和戦前期の作家たち−−」もここで開催されました。 (石神井公園)
永瀬義郎資料室から南へ5分ほど歩くと石神井公園に出ます。ここの石神井池には、ボートが浮かび、西に歩いて行くと三宝寺池にでます。この石神井公園は5.3万坪以上あり、三宝寺池と石神井池の二つの池を中心に武蔵野の面影を残した史跡や伝説の豊かなところです。三宝寺池の沼沢植物群落は国の天然記念物に指定されています。ワニがいるかもしれないということで有名になっています。水辺や林の中の鳥、そして桜、こぶし、紫陽花などの植物は、訪れる人たちの心を和らげてくれます。 (牧野記念庭園)
石神井公園から大泉学園駅の方に歩いて行くと牧野記念庭園に行くことができます。世界的植物学者である牧野富太郎が1967年96才の天寿を全うしたゆかりの深い学問の聖地です。1968年に開園されました。340余種の草木類が植栽されています。時間があれば訪れるのもよいでしょう。 いわさきちひろと永瀬義郎とは、女と男との違いはありますが、一方は若い男性と、そしてもう一方は若い女性と再婚して世の中に残る作品とひとりの男の子供を残しています。そして、その子供がそれぞれ親の作品を守り続けています。すてきであると思います。このような美術館の雰囲気が私はすきです。 |
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所在地:〒177 東京都練馬区下石神井4−7−2 Tel:03-3995-0612 |
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ちひろ美術館 公式HP |
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