|
|
||
東京都青梅市 |
玉堂美術館 |
☆☆☆☆ |
|
|
|
1993年6月 |
|
今回は、多摩川上流の青梅市御岳(ミタケ) にある日本画の巨匠川合玉堂(カワイギョクドウ)を記念して建てられた玉堂美術館を紹介します。 東京駅から青梅行きのJR中央線特別快速に乗ると1時間15分足らずで青梅駅に着きます。青梅行き中央線特快は1時間に1本しかありませんので、高尾行き特快に乗って立川駅で青梅線に乗り換える手もあります。御岳駅は青梅駅から奥多摩行きに乗ると7つ目の駅です。20分足らずで着きます。青梅から奥多摩までの電車は、30分に1本位しかありませんので、予め時刻表をよく見ておいた方がよいでしょう。 御岳駅を降りると多摩川の峡谷が目に入ります。橋を渡ります。近道の案内に従って左に曲がり、杉木立の中、川沿いの小道を降りて行くと右側に玉堂美術館があります。駅から5分ほどです。 川合玉堂は1944年(昭和19年)から1957年に84才で亡くなるまでの13年間をこの御岳で過ごし、絵を描き続けました。自然を愛し、人を愛した玉堂の人柄は土地の人々からも慕われました。玉堂がこよなく愛した御岳渓谷に美術館を建てようとの声が上がり、地元有志や全国の玉堂ファンからの寄付により、玉堂没後4年の1961年5月に玉堂美術館が開館されました。 美術館は石庭風の庭とそれを囲む土塀を配した白壁造りの建物です。玉堂と親しかった建築家吉田五十八(イソヤ) により設計されました。奥多摩の景観と溶け合い落ち着いた雰囲気を醸し出しています。 玉堂は、1873年(明治6年)愛知県の木曽川町に生まれました。その後岐阜に移り、1887年からは、京都の望月玉泉(モチヅキギョクセン) のもとに通いました。15才のときの写生帖が展示されていますが、その描写力は卓越しています。その後、円山四条派で学び、1896年には上京して、東京画壇革新派のリーダー橋本雅邦(ハシモトガホウ)に入門しました。文展での活躍後、1917年東京美術学校日本画科教授になり、1940年には文化勲章を受賞しています。 玉堂の絵の特色は、写実を越えた自然の気品を感じさせるところにあります。玉堂の山水風景画は「どこにもあるが、どこにもない」といわれるのも、写実を元にしつつも玉堂によって構想された独自の山水風景画であるからです。その卓越した描法から生命を与えられた自然は、天地人の調和を持つ自然以上に自然であります。山川草木は所を得て静かに、あるいは生き生きと描かれ、自然とともにつつましく生きる人々の姿がその画のなかにあります。 開館当時は、収蔵作品も少なかったのですが、現在では、作品及び習作が120点余り、遺品等が180点ほどになっています。今でも、寄贈や購入等によって、所蔵品は増えつつあります。代表的な作品には、「紅白梅屏風」、「鵜飼」、「古城新月」等があります。また、美術館には、玉堂のアトリエも再現されています。御岳駅の裏手にあったアトリエを模してつくったものです。奥多摩の風物を好んで描いた画家の姿を伝えてくれます。春の梅と桜の花のころ、そして秋の紅葉のころ訪れるたいとの誘惑にかられます。美術館の白い土塀の外はすぐに多摩川の急流で大きな岩が川のなかに転がっています。 (御岳渓谷遊歩道と御岳美術館) 玉堂美術館を出て一旦御岳駅に戻ると、駅前の橋の横に「御岳渓谷遊歩道降り口」の標識が立っています。御岳美術館へは18分、せせらぎの里美術館へは20分と書かれています。時間があれば是非訪れてみてください。以前訪れた時には、まだ御岳美術館はありませんでした。1993年11月に開館しています。多摩川の渓谷沿いの道を川井駅の方へと歩いて行くと到達します。途中対岸への吊橋がかかっています。 御岳美術館は、小さな美術館ですが、日本の近代美術を鑑賞できる瀟洒な美術館です。 (吉川英治記念館) せせらぎの里美術館に寄ってから川井駅にでるか、そのまま御岳駅に戻り、電車で二俣尾(フタマタオ) 駅まで戻ります。二俣尾駅から歩いて15分のところに吉川英治記念館があります。 吉川英治は、1944年3月に住み慣れた東京赤坂から当時の西多摩郡吉野村に疎開しました。多摩丘陵に囲まれた静かな山村です。戦中戦後の激動期を10年の間、村民たちとの交流を行いながら、ここで執筆活動を続けました。玉堂も英治も都会を離れて多摩の奥に住むことにより、彼らの作品に加わったものは大きいものがあります。また、土地の人々が得たものも大きかったと思われます。1953年8月、英治が吉野村を去るにあたり村人とのお別れ会が吉川家主催で開かれました。そのとき、別れを惜しんで集まった村人たちの数は、300人にも及びました。このお別れ会に川合玉堂も加わっています。 1977年に英治が愛した住まいの草思堂(ソウシドウ)跡に、吉川英治記念館が建てられ、開館しました。吉川英治の著作本のほか、自筆の書画やゆかりの品々が展示されています。 英治は1892年横浜市に生まれました。苦難の少年期を経て、大正初期に文壇に登場してから、1962年70才でその生涯を閉じるまでの50年余りにわたる文業は、「大衆即大知識」、「吾以外皆我師」に貫かれていました。「宮本武蔵」や「新・平家物語」など吉川英治の文学は、あらゆる世代に愛され、あらゆる階層の人々の生きる力となり、心の糧となっています。 18才のときに横浜ドッグで船具工として作業中墜落し、重傷を負いました。この治療を契機に苦学の決意で上京しています。1960年に文化勲章を授与されています。 若い奥さんとの間に4人の子供がいます。50才のときに生まれた長女の曙美さんがお嫁に行くと決まったとき、娘に次のように書き与えています。 倖 (シアワ)せ何と ひと問はば むすめハ なにと答ふらん 珠(タマ)になれとは いのらねど あくたとなるな 町なかの よしや三坪の庭とても たのしみもてば 草々に 人生植えるものハ多かり 吉川英治記念館の前の道に都バスの柚木(ユギ) 停留所があります。ここから青梅駅までバスで行くことができます。二俣尾駅に出てJR青梅線で青梅に出る方が早い場合もあります。時刻表をよく確認された方がよいと思います。 (青梅市立美術館) 青梅駅から徒歩5分のところに青梅市立美術館があります。青梅街道沿いにあります。美術館の2階のロビーからは、眼下に多摩川の流れを見渡すことができます。1984年に開館しています。この美術館は、大正から昭和初期にかけての日本の絵画を集めています。川合玉堂、山本丘人(ヤマモトキュウジン)、上村松園(ウエムラショウエン) 、速水御舟(ハヤミギョシュウ) 達の作品が展示されています。青梅ゆかりの作家の作品の収集に力を入れており、特に、この地の出身の小島善太郎の作品については、館内に小島善太郎美術館を配置し、常設展示しています。
6月17日の新聞に皇太子夫妻が16日に東京・奥多摩の高水三山を登山したとの記事が出ていました。青梅市成木の登山口を出発して高水山、岩茸石山、惣岳山を経て下山しています。最も近い駅がJR青梅線の御岳駅です。今回、美術館を訪問したあと、三つの山の一つ位登ってみようと思っていたのですが、あいにく雨がひどく美術館訪問だけになってしまいました。でも、雨の降る奥多摩の景観は、玉堂の描く日本画のように美しいものでした。紅葉のころか、梅の花の咲くころにまた訪れてみたいと思います。 |
|||
|
所在地:〒198-01 東京都青梅市御岳75番地 Tel:0428-78-8335 |
|
|
|
玉堂美術館 |
8 |
|
|
|
||