夢彩人

東京都台東区

朝倉彫塑館

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ASAKURA CHOSO MUSEUM

19948

 

今回は、上野の奏楽堂にある滝廉太郎の彫刻を作成した日本彫塑界の最高峰・朝倉文夫(アサクラフミオ)の記念館である台東区立朝倉彫塑館(チョウソカン)を紹介します。

JR日暮里(ニッポリ) 駅の西口を出て最初の信号を左に曲がると朝倉彫塑館の看板が左手に見えます。駅から3分ほどのところです。日暮里駅の西側は、谷中(ヤナカ) の墓地が広がっていますが、朝倉彫塑館は、墓地とは路地で隔てられたところにあります。朝倉文夫のアトリエと住居を美術館としたものです。文夫がこの谷中に居を構えたのは、東京美術学校を卒業した1906年(明治40年)24歳の時です。その後、増築や大改築が行なわれ、1934年に現在の全館が完成し、名称を朝倉彫塑塾としています。そして1986年には台東区に寄付され、台東区立朝倉彫塑館として開館しました。

この朝倉彫塑館の中央には、自然の湧泉を利用した日本庭園があります。朝倉文夫は、この庭を自己反省の場として設計したもので「五典の水庭」と呼ばれています。儒教の五常を造形化した、仁、義、礼、智、信の五つの石が配されています。

      仁も過ぎれば弱(ジャク)となる

      義も過ぎれば頑(カタクナ)となる

      礼も過ぎれば諂(ヘツライ)となる

      智も過ぎれば詐(イツワリ)となる

      信も過ぎれば損(ソン)となる

文夫は、淡々として無味で、透明で如何なる場合も自由自在で、そして何時も本然の姿で現われて、この大地の万物を潤して行く水を好みました。また、花をこよなく愛しています。自然と語り、自然を愛する人に悪人はいないし、又それ程幸福な人はないと言っています。庭には、一月の梅に始まり、12月の山茶花で終るまで、白い花の木が植えられています。これは、生涯純粋さを持ち続けたいと願ったところからきていると言われています。でも、完璧さを避けるため赤い百日紅(サルスベリ)が植えられているのは、人間味を感じます。本館の建物も朝倉文夫自ら設計したものです。鉄筋コンクリート造りのアトリエと竹と丸太を主体とした数寄屋造りの住居で構成されています。

館内には、文夫の代表作である「墓守」、美しい女性美の「時の流れ」や「大隈重信像」などの人物像や猫などの動物像が約50点常時展示されています。また、華道、茶道、俳句、南画などにも優れた才能を発揮しています。文夫の遺品や彼の美意識により収集した書画や陶磁器などのコレクションも多数展示されています。

天井まである書斎の棚は1万冊を越える本で埋まっています。この内の半分は、文夫の仲人でもあった岩村透先生の蔵書です。古本屋に買い取られた先生の本がバラバラになるのが忍びず住居を抵当にいれて、買い戻したとのことです。よく勉強されていたことが伺えます。3階には、来客を遇すための朝陽の間があります。屋根のさきの女性の彫刻と谷中の町をみわたすことができます。屋上には、花が植えられています。

朝倉文夫は、1883年に大分県直入郡竹田に生まれました。1879年生まれの滝廉太郎は12歳の時この竹田で過ごしています。文夫が滝廉太郎の彫刻を作成しているのは、同郷ということもあるのだと思います。

文夫は11人姉弟の5番目で、遠縁に当たる朝倉家の養嗣子になっていましたが、中学を出てから美術の志しやみ難く、養家を抜け出し、

1901年、実兄の彫塑家渡辺長男をたより上京しています。このとき20歳になる息子を東京まで送ってくれたのが母であったという。世界中の誰もが理解しなくても、母だけは共鳴してくれて、成功の日を待っていてくれるのだと思うと、どのぐらい心強かったか知れないと文夫は後に書いています。上京した翌年、東京美術学校彫塑科に入学し、在学中、海軍の三提督銅像制作に応募し「仁礼景範像」が一等に当選しています。1916年33歳にして文展審査員に任命され、1921年には東京美術学校教授に任ぜられ、その後24年間母校で後輩の指導に当たっています。また、私邸では、朝倉彫塑塾を開設し、教育者としても活動しました。25歳のとき文展で初入選して、帝国ホテルで初めて西洋料理を食べたとき、美術学校の正木校長が世間話の中でそれとなくドイツや英国での西洋料理の食べ方を話題にして、食べ方や洋風のマナーを教えてくれたその心遣いの深さを有り難いと思い、西洋料理を食べるたびに思い出すと言っています。そして、弟子に対してもこのようなやり方で教えてこられたとのことです。

文夫は、驚異ともいうべき数の作品を制作しています。特に肖像彫刻は4百余りあり、世界での群を抜いています。いずれの作品にも日本人らしい質感を表現しています。1948年文化勲章を受賞し、1951年文化功労者となり、1964年81歳で亡くなっています。

33歳で結婚して2人の子供がいます。長女は朝倉摂子(摂)さんで画家であり、舞台美術家として活躍しています。10月に中村正義の美術館で摂さんの講演会があるというので聞きに行ってみようと思っています。次女の朝倉響子さんは、彫刻家です。新宿駅西口の1階の鏡の前にある電話をかける若い女性の彫刻「約束」は響子さんの作品です。

朝倉文夫は「彫塑余滴」などのエッセイを書いています。これらは、多くの教訓を含んでおり、人生読本の性格を持っています。人間の生れながらに具備している芸術本能を育てることにより人々に真に生き甲斐を感じ得るような生活を実現させることに注力していたことが分かります。子供からも信頼されていた父親であったことが想像されます。

 

(一葉記念館)

日暮里駅まで戻り、北側の出口に出るとバス乗り場があります。錦糸町行き「里23」バスに乗って竜泉(リュウセン) まで行くと台東区立一葉記念館に行くことができます。時間があれば立ち寄られたらよいと思います。竜泉停留所を降りて少し戻ると一葉記念館への標識がありますのですぐ分かります。

明治文壇の才媛樋口一葉がこの地に住み、名作「たけくらべ」を書きました。1886年肺結核のため24歳の短い生涯を終えましたが「たけくらべ」をはじめ、「大つごもり」「にごりえ」など数多くの作品を発表しています。一葉は、この他に4千首に近い和歌や14歳から晩年までの日記を残しています。この日記は近代文学の傑作と言われています。この記念館には、一葉のあこがれの師であった半井桃水に宛てた手紙など一葉に関する資料が展示されています。

 

(小石川植物園)

竜泉のバス停留所から池袋行き「浅64」のバスで白山上まで行き、そこから歩いて10分程のところに小石川植物園があります。この植物園は、今から300年前に徳川幕府が儲けた小石川御薬園ですが、今は東京大学理学部付属の施設となっています。3万坪の敷地に約4000種の植物が栽培されています。

泉鏡花の小説「外科室」の舞台となった場所でも有ります。一度目をかわしただけで恋におちた学生と少女が9年の歳月をへだてて、それぞれ外科医師と患者の貴婦人として手術室のなかで再会し、愛に殉ずるという小説で、映画にもなっています。吉永小百合が美しい貴婦人を演じていたのを思い出します。このような愛は現在どこまで通用するのかどうか分かりません。一目会っただけでこのように9年間も思い続けることができるものかどうか分かりません。でもこのように精神的な愛は、分かるような気がします。

 

 

所在地:110

    東京都台東区谷中7−18−10

Tel:03-3821-4549

 

 

朝倉彫塑館 公式HP

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