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東京都小金井市 |
財団法人中村研一記念美術館 |
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1994年10月 |
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中村研一記念小金井市立はけの森美術館
今回は、緑豊かな武蔵野の面影を残す武蔵小金井のはけの道にある中村研一記念美術館を紹介します。 JR中央線の三鷹駅から3つ目の武蔵小金井駅から南に下り連雀通りとの交差点を過ぎて数十メートル先を左に曲がると「はけの道」に入ることができます。このはけの道を数百メートル行くと左側に財団法人中村研一記念美術館があります。途中標識があるので迷うことはないと思います。武蔵小金井駅から歩いて15分ほどです。 中村研一記念美術館は中村研一の未亡人富子さんが、夫の作品を長く後世へ伝えたいとの思いをこめ、後半生を過ごした屋敷跡に独力で建設し、研一の23回忌にあたる1989年(平成元年)に開館しました。富子夫人は、今もここに住んでおられます。 この美術館には、中村研一の静物画や婦人像などの油彩画150点、素描1000点、陶芸作品150点と遺品、書簡などが収蔵されおり、これらの内の90点ほどが常設展示されています。特別展や企画展なども開かれることがあります。 中村研一は1895年5月14日に福岡県宗像郡南郷村光岡で生まれています。父は佐渡御料局鉱山学校の教授でしたが、新居浜の住友合資会社別子事業所に赴任したため、4歳で両親と離れ宗像郡の祖父母のもとで中学入学までを過ごします。その後福岡市内に下宿して中学に通います。家族は父が住友総本店勤務となったため神戸の御影(ミカゲ)に移ります。研一は1915年に上京して、東京美術学校の西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学びます。2年間アテネセの夜学に通いフランス語を学び、28歳のときフランスに留学しますが、留学中に母と父を失います。1928年に帰国し、その年に戦艦三笠の最後の司令官の長女の富子さんと結婚します。研一は若くして帝展で特選を重ね、1936年には、「弟妹集う」で当時の最高賞である帝国美術院賞を受賞しています。研一の作品はデッサンが確実で、奥行のある色彩豊かな人物や花の名作を数多く残しています。 研一の著書「絵画の見かた」の中で次のように語っています。 「絵の上で顔のアウトラインをきめる場合にも、その線がどれでも よいというわけにはゆかない。一つしかない。・・・・・ 無数の線の中からこれ以外にないというほんとうの線を取り出し て来るのがデッサンです。その線は、非常に決定力を持っている 線で、ボヤボヤと描いたものというわけにはゆかない。」 戦中は軍事画家として多くの作品を描いています。1945年5月の東京大空襲で代々木・初台のアトリエと自宅を全焼し、300余点の作品を焼失しています。その年の12月にこの小金井に移り住み制作を続けることになります。56歳で日本芸術院会員となり日本洋画壇の重鎮として活躍しましたが、1967年8月28日72歳の生涯を閉じています。 展示されている作品の中で特にバラやチューリップなどの花の絵と婦人の絵が目につきます。婦人像のモデルは富子夫人だと思われます。裸婦の絵もきっとそうだと思います。 (はけの道と野川) この美術館の前の道は「はけの道」と呼ばれています。そして、美術館のある場所はノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏と同じ流れにある大岡昇平の小説「武蔵野夫人」のモデルとなったところです。美術館の裏には、中村研一の旧宅と「花侵庵」(カシンアン)と名付けられた茶室があります。花の香りが侵入する庵の意味だそうです。「はけ」は段丘から清水が湧き出ている地形に対して名付けられた言葉で、この美術館の裏手にも水源があり、豊かな湧水が池に流れ込んでいます。はけの道の南側には野川が流れています。 「武蔵野夫人」の最初の章で、この野川について述べられています。「流れの細い割りに斜面が高いのは、これがかって古い地質時代に関東山地から流出して、北は入間(イルマ) 川、荒川、東は東京湾、南は現在の多摩川で限られた広い武蔵野台地を沈殿させた古代多摩川が次第に南西に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。野川はつまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである段丘は三鷹、深大寺(ジンダイジ)、調布を経て喜多美(キタミ)の上で多摩川の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵と対しつつ蜿々(エンエン)六郷(ロクゴウ)
に到っている。」と書かれています。野川の向こうには桜の名所である武蔵野公園、野川公園が続いています。 (村山貯水池) 「武蔵野夫人」は、貞淑で、古風で、やさしい魂を持った人妻の道子と従弟の勉との間の愛についての心理模様を描いている小説です。この中で勉が道子を村山貯水池に誘う場面があります。この村山貯水池へは国分寺から西武鉄道多摩湖(タマコ) 線に乗ると15分ほどで行くことができます。西武遊園地で降りて階段を上がり左に少し登って行くと、水が満々とたたえられた人工湖の多摩湖に出ます。これが、村山貯水池として知られている湖です。澄んだ秋の空がどこまでも広がっています。多くのカップルが散策しています。小説では、道子と勉が、この堰堤(セキテイ)の下の芝生の間の路をゆっくりと歩きます。岬の突端の岸の近くの月見草が咲き乱れる間に二人は腰をおろします。やがて風が梢を鳴らし始め、雨が頬に当たります。台風が急に進路を変えてこの狭山丘陵に向かって進んできたため、多摩湖線は配電線が故障して不通となり、帰れなくなってしまいます。翌朝になっても多摩湖線は復旧しないので二人は家まで歩いて帰ります。私には、この広大でどこまでも静かなな人工湖がなぜか冷たく映りました。 (平櫛田中館と玉川上水) 国分寺の一つ手前の一橋学園駅で降りて、一橋大学小平分校に向かって10分ほど歩くと、その横に日本近代彫刻界の巨匠である平櫛田中(ヒラグシ デンチュウ)の邸宅を美術館とした小平市平櫛田中館があります。平櫛田中はこの地で百歳をこえても制作を続け、107歳でその生涯を閉じています。この美術館の横には、玉川上水が西から東に流れています。この玉川上水は江戸時代多摩川の水を江戸に引くために造られたもので取水口の羽村堰(ハムラセキ)
から四谷大木戸まで43kmあります。この平櫛田中館付近から杉並辺りまでが昔の上水の面影を留めていると言われています。この館付近の上水沿いの美しい緑の小道はラバーズレイン(恋人たちの小路)と呼ばれています。春は桜の花びらが、秋は紅葉が流れ、イチイの並木は冬でも緑を落としません。ここは秋の淡いこぼれ陽の中を大人の気分で散歩してみたいところです。 |
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所在地:〒184 東京都小金井市中町1丁目11−3 Tel:0423-84-9800 |
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中村研一記念小金井市立はけの森美術館 公式HP
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