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神奈川県逗子市 |
イヴ・タンギー美術館 |
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1994年9月 |
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今回は、海を愛し生涯海を描き続けたシュールレアリストの画家イヴ・タンギーの作品を集めた、伊豆マリーナの一角にあるイヴ・タンギー美術館を紹介します。 京浜急行・新逗子駅の北口から小坪経由鎌倉駅行の京浜急行バスに乗り小坪海岸で降ると数分で逗子マリーナの管理事務所のある白い建物に出ます。その2階がイヴ・タンギー美術館です。 イヴ・タンギー美術館は、シュールレアリストの作品を収集する東京青山にある画廊バウハウスの経営者で、この逗子マリーナの経営者でもある勝田一正氏により、1991年8月に開設されました。 この美術館には、イヴ・タンギーの作品41点が展示されています。イヴ・タンギーは、作品の数が少ないことで知られていますので、これだけの数の作品を一同に展示しているところは、他に類を見ないと思われます。27歳の時に描いた海の海底を思わせる力強い作品をはじめ、パリ時代の恋人ジャネットに送った、果てしない宇宙空間を思わせる作品群、「運命判断」と題する美しい色の諧調の世界を描いた作品などが展示されています。 イヴ・タンギーは、1900年、パリで生まれました。幼年期には、毎年、両親の故郷であるブルターニュ地方の大西洋に突き出たロクロナンの海や田園風景の美しいフィニステールで休暇を過ごしました。1918年には、貨物船の見習い船員となり、アフリカや南アメリカを航海しています。これらの時期の海や田園風景のイメージが彼の作品に重要な影響を与えていると言われています。20歳で彼はフランス軍に徴兵されますが、この時に詩人のジャック・プレヴェールと出会い、雑誌「シュールレアリスム革命」を知ります。23歳のときに、走るバスの中から、画廊のショーウインドーに飾ってあったキリコの絵「子供の脳髄」を見つけ、バスから飛び降りています。このキリコの絵はイヴ・タンギーに強い感銘を与え、彼に画家になることを決心させました。彼は独学で絵画制作に入り、無意識のイメージを描きだすことを目指した自動記述法によるスケッチを多数制作しています。そして、25歳のとき父のように慕うことになるアンドレ・ブルドンと出会い、シュールレアリストの詩人や劇作家との親交を深めて行きます。27歳で結婚していますが、その後、39歳のときアメリカの女流画家ケイ・セージと出会います。ナチスの台頭とともにアメリカに亡命し、コネチカット州の田園風景の美しいウッドベリーに住居を構えます。そして1940年8月ケイ・セージと結婚し、1955年、ベッドから降りようとして頭から落ちて不慮の死をとげるまで、この地で制作活動を続けました。彼の死後夫人は、8年かけて、彼の全作品463点の目録を完成させています。そして、そのあと、ピストルで自からの命をたっています。 イヴ・タンギーは几帳面な性格の芸術家であったといわれています。無口で、自分について、そして作品についてもほとんど語らなかったといいます。でも、イヴ・タンギーの描く絵は、現実の海だけではなく、彼の夢の世界そのものをも語りかけてくれます。多くを語る必要はなかったのかもしれません。 美術館の前の棕櫚の並木道を左に行くとヨットの高いマストが立ち並ぶ逗子マリーナに出ます。ここからは、右手に遠く江ノ島の灯台を見ることができます。 夏を過ぎると美術館に訪れる人も少ないとききます。逗子マリーナの堤防沿いを散策する若いカップルの数もまばらです。美術館自体は大きくはありませんが、展示室は広い空間を取り、入り口のドアの把手や展示室に置かれた椅子などは、イヴ・タンギーの絵を構成している形体を模して作るなど、いつまでもイヴ・タンギーの世界に浸ることができるように工夫されています。 (山口蓬春記念館) 一旦JR逗子駅に戻り、そこから同じ京浜急行バスの葉山・一色海岸行で三ケ丘(サンガオカ)まで行くと日本画に新しい世界を築いた山口蓬春(ホウシュン) の記念館に行くことがでます。標識があるので、間違えることはありません。逗子駅から15分程です。 この記念館は、1991年10月9日に開館しました。蓬春画伯が長年創作活動の拠点とした海と緑に囲まれた、自然豊かな場所です。記念館の横には、春夫人の住まいがありますが、今は亡くなってだれも住んでおられません。(財)JR東海生涯学習財団が山口家所蔵の美術品と施設の提供を受け、記念館を管理運営しています。 記念館は小高い山を背にして建てられています。記念館の入り口から見上げる小高い山に映しだされた空の青さは印象的です。海は直接見えませんが、潮の薫りが、海岸が間近であることを教えてくれます。蓬春と東京美術学校で同窓であった建築家、吉田五十八の設計による画室や庭も公開されています。 館内には、蓬春の「枇杷」「士女遊楽図」「春野」などの作品をはじめとして、研鑽が偲ばれる素描、模写等と共に、画伯が収集した、重要文化財「十二ヵ月風俗冊子」や尾形光琳「飛鴨図」等を含むコレクションも随時展示されています。 山口蓬春は1893年(明治26年)北海道松前の生まれですが、育ちは東京で、1914年東京美術学校西洋画科に入学しています。在学中に二科会で連続入選を果たしましたが、その後、ある師の言葉がきっかけとなり1918年日本画科に転科しています。9年間の学生生活を終え、1926年の帝展で「三熊野の那智の御山」が特選となり、帝国美術院賞を受けています。その後、帝展からも離れ、試練の時期を迎えますが、独自の絵画領域を広げ、戦後は、蓬春の新日本画への姿勢がより一層明確に打ち出されます。「山湖」「とう上の花」「夏の印象」「浜」等明るく洗練された近代調の作品を発表し、日展を中心に活躍しました。そして晩年は、「冬菜」「枇杷」などの緊張感に満ちた写実表現をへて「紫陽花」「芍薬」などの清澄で拡張のある表現へと画境を展開し、代表作の「春」「夏」「秋」「冬」を発表し、1965年には文化勲章を受賞しています。1968年には、皇居新宮殿杉戸絵「楓」を完成させ、1971年77歳で亡くなっています。子供さんはいなかったとのことです。 蓬春の絵をみていると、西洋画から転向した画家らしく、日本画の型にはまったところがありません。特に晩年の作品には、明るさと、動きを感じます。 記念館を出てバス道路を横切ると一色海岸に出ることができます。砂浜には、まだ、若い男女が水着姿で夏を惜しんでいました。遠くヨットが静かに浮かんでいます。太陽の光が浜辺で砕ける波に乱反射して美しく輝いています。山の緑の中でどこまでも青かった空は、とおく広がる葉山の海の上でも青く続いています。この一色海岸に佇むと、遠い昔を思い出します。そして、静かにずっと繰り返す波を見ていたい気持ちになります。 (葉山しおさい公園) 三ケ丘から葉山よりに少し歩くと葉山御用邸付属邸跡に造られた「しおさい公園」があります。この公園のなかには、葉山海岸を中心とした「相模湾の海の生物」をテーマとした葉山しおさい博物館があります。昭和天皇の採集品も展示されています。この公園から少し行ったところに葉山御用邸があります。公園や御用邸の前には、警察官が警戒をしています。御用邸の前は、神奈川県警葉山警察署で屋上のカメラは、御用邸の門を監視しています。 もし時間があれば、帰る途中の富士見橋の近くにある蘆花記念公園に寄られるのもよいと思います。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した旅館跡につくられた公園です。 逗子や葉山を舞台とした小説は、数多くあります。石原慎太郎の「太陽の季節」、久米正雄の「破船」、横光利一の「春は馬車に乗って」、有馬頼義の「葉山一色海岸」、国木田独歩の「欺かざるの記」等です。これらの小説の舞台となった逗子小坪辺りの海岸も葉山の森戸海岸や一色海岸も今は、若者たちのウィンドサーフィンやヨットで彩られています。 |
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所在地:〒249 神奈川県逗子市小坪5−436−1 Tel:0467-23-2111 |
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公式HP: |
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