夢彩人

茨城県笠間市

笠間日動美術館

 

☆☆☆☆

 

Kasama Nichido Museum of Art

19941

 

今回は、東京を離れて茨城県の笠間にある笠間日動美術館と水戸の茨城県近代美術館を紹介します。

上野からJRの常磐線で友部(トモベ)まで行き、そこから水戸線に乗り換えて2つ目の笠間駅で降ります。市内循環バスで銀行角まで行くと、徒歩3分のところに笠間日動美術館があります。笠間駅から歩くと25分位です。途中に日本三大稲荷の一つである笠間稲荷神社があります。笠間駅の近くはひっそりとしていますが、この稲荷神社の近くになると土産物店や笠間焼きの店が多くなり賑わいを増します。美術館の横には大石良雄の祖父の大石邸址があります。

笠間日動美術館は、株式会社日動画廊の創設者の長谷川仁(ジン) ・林子(リンコ) 夫妻が創設45周年と二人の金婚式を記念して私財を投じて1972年に開設しました。展示物の多くは、夫妻が長年の画商活動のかたわらに収集したものです。特に明治以降から現在に至るまでの著名画家が使用していたパレット上に描いた絵や多くの作家の自画像は、素晴らしいものです。200点以上のパッレト絵の収集は、多くの画家に信頼されていた長谷川仁・林子夫妻だから可能であったのだと思います。さらに岸田劉生や小磯良平の作品、ヨ−ロッパの印象派、後期印象派からエコ−ル・ド・パリ、戦後アメリカ美術など2000点を越える作品が所蔵されています。

美術館は、長谷川仁・林子記念館と5階建の西館、そして1989年建設された東館の建物からなっています。西館と東館の間には、丘陵斜面を切り開いてつくられた野外彫刻庭園があります。この中には、舟越保武氏の「原の城」の彫刻もあります。

長谷川仁・林子夫妻はすでに亡くなられて、現在は、息子さんの徳七氏とその奥さんの智恵子さんが美術館を運営されておられます。日動画廊の副社長である智恵子さんは経済同友会の会員で日本洋画商協同組合の理事長でもあります。「世界美術館めぐりの旅」等の著書も多く出されています。「女だから、女だてらに」の著書のなかには、中学生であった智恵子さんが大学生の徳七氏と知合って、その恋を実らせた話や姑に仕えた話、結婚後7年目から銀座の画廊に出勤するようになり、ダリやシャガ−ルなど世界の巨匠たちとの出会いなどについて語られています。美しい智恵子さんの好きな言葉は、「優しい」という言葉だそうです。まわりへの思いやりが必要だとも言っています。

長谷川仁・林子夫妻が日動画廊そして美術館をいかにつくりあたかについては、長谷川仁の著書「へそ人生」に記されています。長谷川仁は1896年(明治30年)10月9日東京市牛込区山伏町に生まれています。親は牧師で14人の7番目という子沢山の家庭で育ちました。中学を卒業して一時仕事についていますが、その後、神学校を経て明治学院神学部を卒業します。

学生時代には、同じ苦学生の友人と学生八百屋をします。宗教八百屋とも洋服八百屋とも呼ばれ、多くのお得意さんと協力者を得ます。その後、関東大震災を経験し、学生八百屋が出来なくなってしまい、幕屋の販売係や夕刊の発送係のアルバイトをしながら学校に通います。そのころ、鳥取から親戚を頼って上京し、洋裁やフランス刺繍を習いに巣鴨に通う、隣に下宿していた娘と恋をします。震災で焼失してしまったそれまでの下宿先から焼けずに済んだ隣家に越してきていたのです。その娘が仁を見初めたのは、彼女の家の台所から彼の6畳間がよく見えて、いつも本を読んでいる青年の姿が女心をとらえたとのことです。上野公園や小石川植物園でのデ−トを重ねて、学生であった26歳の仁と一つ上の27歳の林子は、彼女の下宿先の夫婦を媒酌人として、仁の自宅でささやかな結婚式をあげます。震災のとりもつ縁であったとのことです。

結婚後は、夫人の力で下宿屋などをしながら明治学院を卒業し、信州飯田の教会を皮切りに牧師の道を歩み始めます。しかし、横浜で二度立て続けに泥棒に入られ、すべてを失ってしまったことが原因で、新しい職につくことになります。仁は、牧師であった父親の感化で、「世の中のものいっさいを素直に受け入れる。人は疑わないし、世間も疑わない。昔から世の中のことすべてはなるようになるものである」と信じて、家には鍵をかけることがなかったためです。

幼い頃からの親友であった松村敬次郎の勧めで、洋画商を始めます。敬次郎の弟で画家である松村健三郎から、洋画商は、伝道と同じであると聞いて、猛然とファイトを燃やします。健三郎画伯の絵を持って、せっせと横浜を歩き回り始めます。品物が少ない商人は、いいお得意はとれないとの学生八百屋の経験から、出来るだけ多くの点数を抱えて、一日一点は売るという一日一点主義を励行して行きます。入金が遅れているときなどは、帰りは歩いて帰ることを覚悟に、帰りの電車賃を持たずに家を出ることもあったとのことです。

そして、展覧会画商を経て、画廊をひらくことになります。最初の画廊は日本橋の高島屋の近くでしたが、立ち退きをせまられ、日本動産火災保険会社の粟津社長の好意で敷金、家賃なしで西銀座の新築ビルの1階に日動画廊を出すことになります。日本動産火災が日動火災と呼ぶようになるのは、その後のことだそうです。

最初のころは、画廊で働くのは仁・林子夫妻だけで、二人が社長であり、社員であり、小使いでありました。子供は7人おられますが、夫婦そろって店に出る習慣は、夫人がお産で休むとき以外は、ずっと続き、藤田嗣治画伯の夫婦喧嘩の調停役なども、いつも林子夫人の役目であったとのことです。現在の日動画廊や美術館があるのは、林子夫人の力が大きかったことを感じます。

日動画廊は、多くの洋画家を育て、新団体をも発足させています。長谷川仁は「その種さえまかれていれば、葉は、徐々に茂ってゆくものである。いつでも、一つ、小さいものを望んでいさえすれば、それはいつのまにか、五倍、十倍に実ってゆくものである」、お世辞というものが言えず、上手い話も出来ないから、誠意を尽くしたそうです。「うまい話はとかく信用されないが、うまくない話は、かならず人に信用されるものである」と言っておられます。

「大衆に愛されてこそ文化は価値がある。ひとりでも多くの人々に洋画を理解してもらえれば嬉しい。画廊は入りやすい空間でなければならない。買われなくても親しんでもらえればいい」は、長谷川仁が生前よく言っていた言葉だそうです。事実、銀座の数寄屋橋にある日動画廊は入りやすく美術館のように観賞することができます。私が訪れたときは花の絵の展示がされていました。

 

(茨城県立近代美術館)

笠間駅から水戸までは、30分で行くことができます。茨城県近代美術館は、水戸駅南口から歩いて15分ほどのところです。千波湖(センバコ) の横に建てられた立派な美術館です。この地に建てられたのは、1988年10月1日ですが、1947年に常陽明治記念館内に設置された歴史のある美術館です。

1階には、郷土ゆかりの作家を中心とした常設展示室があります。2階は、企画展示室で近代、現代のすぐれた美術作品展が開催されています。1階の大ホ−ルには、グランドピアノが置かれ、広い空間はボストン美術館などの海外の美術館を思わせます。ア−トフォ−ラムでは、複製画を用いての美術の流れや技法、風俗などを紹介しています。マルチスライドやビデオプロジェクタに美しい映像が写し出されている情報コ−ナや画集や美術雑誌の図書コ−ナもあります。美術館の横には、水戸出身で大正時代に活躍した洋画家中村つねのアトリエが復元されています。

 

(偕楽園)

水戸は、徳川御三家の一つ水府35万石の城下町です。水戸黄門漫遊記でも有名です。千波湖のまわりには散歩道があり、市民のいこいの場となっていますが、もともとは水戸城の要害の1つであったそうです。昔から比べると狭くなったらしいですが、それでも100万坪の面積があります。

千波湖を挟んで美術館の反対側に偕楽園があります。金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに、日本三名園の一つに数えられています。面積は3万3千坪で、園内には数千本の梅が植えられ、宮城野萩や霧島つつじも植えられています。

 

 

所在地:309-1611

    茨城県笠間市笠間978−4

Tel:0296-72-2160

 

 

笠間日動美術館 公式HP

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