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群馬県北群馬郡 |
竹久夢二伊香保記念館 |
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1994年10月 |
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今回は、東京を離れて榛名山の中腹の湯の町伊香保にある竹久夢二伊香保記念館を紹介します。 JR上越線の渋川駅から東武バス伊香保温泉行きに乗り、見晴下停車場で降ります。そこから歩いてすぐのところに竹久夢二伊香保記念館があります。渋川駅から20分ほどのところです。上野からだと2時間半近くかかります。1万余坪の広大な雑木林の中に建てられています。 竹久夢二は1919年(大正8年)に初めて伊香保を訪れ以来、伊香保・榛名をこよなく愛することになります。夢二は榛名湖畔にアトリエを建て、そこを産業美術学校にしようと考えました。草木染や木工芸、粘土細工、織物など地域に根ざした美術品をつくり、観光と郷土美術の振興に役立てようとの考えから、その実現のため多大な情熱を傾けましたが、その思い半かばにして、この世を去ってしまいました。竹久夢二伊香保記念館は、伊香保をこよなく愛した夢二の心に応えて、地元の有志により1981年5月に開館しました。 この記念館は、白壁土蔵造りの本館とその後新築された大正ロマン夢の館の二つの建物から成っています。敷地内には、オルゴ−ルや蓄音機の展示、演奏を行なっている音のテ−マ館もあります。これらの建物は自然とよく調和して、夢二の生きた大正ロマンの時代への郷愁を誘います。 常設展示室には、12歳の少女であった伊香保の松沢みどりが夢二に出したファンレタ−とその少女への夢二の返書も展示されています。榛名山美術研究所の建設趣意書や夢二が伊香保と榛名をうたった歌の原稿なども展示されています。新館の大正ロマン夢の館には、夢二に関する研究と収集の第一人者である長田幹雄氏が収集した榛名の連山を背景に立つ女神の佐保姫(サオヒメ)が描かれている晩年の作品「榛名山武」が展示されています。この絵には次の詩が書かれています。
久方の光たゝえて 匂ふな里(リ) 榛名乃 湖(ウミ)に春たちにけ里(リ)
竹久夢二は、1884年9月16日に岡山県で生まれています。神戸中学に入学しますが、在学8ケ月で中退し、その後入学した早稲田実業学校も中退しています。23歳で2つ年上の岸たまきと結婚して男の子が生まれますが、2年で協議離婚しています。でも、その後も、たまきと同棲して次男が生まれています。伊香保の松沢ミドリより手紙を貰い伊香保を知ったのもこの年です。1913年には、「どんたく」にあの有名な「宵待草」の3行詩を発表しています。
まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな
その後、夢二の最愛の女性と言われる12歳年下の笠井彦乃(ヒコノ) と結ばれますが、5年後に彦乃は亡くなってしまいます。失意の夢二は、その後別れることになるモデルのお葉と生活をはじめます。そして、1930年榛名湖畔の山荘建設に着手し、「榛名山美術研究所建設につき」なる宣言を世に問います。島崎藤村、有島生馬、藤島武二等が賛助の名を連ねています。多くの県人の協力により榛名山美術研究所の建設を進めましたが当時の不況のため十分な資金援助が得られませんでした。 夢二は、外遊を決意し、アメリカに向かいますが、病気や展覧会不振等で必ずしも快適ではありませんでした。ヨ−ロッパに発つ前日、アメリカで世話になった坂井米夫氏に贈ったのが榛名山を背景に前面裸婦が横たわる構図の屏風「青山河」です。添えられた手紙の中に「早くハルナの山へ帰りたく存じ候、榛名の山も今は、初秋の風、梢をならして居るべく・・・」とその心境が述べられています。「青」はかぎりなきさびしさ、「山」は彦乃、「河」は夢二を意味しているとも言われています。その後、ヨ−ロッパ各地を訪れ、帰国後すぐに台湾への旅行に出たため、病が悪化し、再び伊香保・榛名の地を踏むことなく、1934年9月1日信州藤井高原療養所で49歳11ヵ月の生涯を閉じました。翌年9月1日、有島生馬画伯を代表とする夢二会の有志の手で榛名湖畔に歌碑が建設されました。その歌碑には、次のように記されています。
さためなく 鳥やゆくらむ青山の 青のさひしさ かきりなけれは
榛名湖畔には、伊香保温泉からバスで30分ほどで行くことができます。昨日の雨が嘘のように、夢二の歌碑の立つ湖畔から青い湖面と青い空の中に榛名山が美しく写し出されていました。
(徳富蘆花記念文学館) 伊香保温泉行きバスの終点で降り、徒歩7分のところに小説「不如帰」や「自然と人生」等で有名な徳富蘆花の記念文学館があります。 「不如帰」の書き出しは、この伊香保が舞台となっています。「上州伊香保千明(チギラ)の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は十八九。品好き丸げに結ひて、草色の紐(ヒモ)つけし小紋縮緬(コモンチリメン)
の被布(ヒフ)を着たり。」で始まっています。蘆花夫妻は、子供に恵まれなかったため、子に恵まれるという伊香保温泉に出掛けるようになり、伊香保を愛し、ついに臨終の地にもなっています。 小説「不如帰」は、蘆花が逗子の柳屋という家の部屋を借りて住んでいた頃、病後の保養に子供を連れて訪れた婦人から、大山巌大将の令嬢信子の不幸な運命を聞いたことに端を発して作られた、浪子と武男の悲しい物語です。姑にいじめられ、胸の病を理由に離縁された浪子は逗子の別荘で養生し、死んで行きます。夏の夕やみにほのかに匂う月見草を思わせる浪子は、竹久夢二の描く女性達を連想させます。 今回の「私の訪れた花のある美術館」のなかには、なぜか徳富蘆花がよく出てきます。自然文集「自然と人生」の中に、フランス画家コロ−の人間像と画風につて記されている部分があります。蘆花が小説だけでなく、水彩画として自然の美しさと自然の心を描いているからかもしれません。逗子にある蘆花記念公園については、イヴ・タンギ−美術館のところで少し触れています。蘆花の最後の居住であった、京王線蘆花公園駅から歩いて20分のところにある蘆花公園恒春園については、世田谷美術館のところで紹介しています。
(福沢一郎記念館) 伊香保から少しはなれた榛東村には、福沢一郎記念館があります。福沢一郎は1898年群馬県富岡市に生まれ、東京大学文学部に入学しますが、途中彫刻家を志し、朝倉文夫に師事し、やがてフランスに渡り画家をめざすようになり、キリコなどの絵に刺激を受け、シュ−ルレアリズム(超現実主義)に基づいた作品を発表します。シュ−ルレアリストを共産主義とみなす特高警察により拘留されたこともありますが、不屈の精神により、地獄絵の連作をはじめとして、世相、政治、風俗などに対し、批判とユ−モア、怒り、反抗といった姿勢で描き続けました。晩年は、神話や歴史にテ−マを求め、人間の愚行、情熱、醜さなどを表現した作品を発表しています。1991年には文化勲章を受賞しまが、翌年、反骨と自由の精神に貫かれた生涯を閉じました。この記念館には、福沢一郎の晩年の作品が比較的多く、「ドン・キホ−テ」や「耳飾り」など館長がリクエストして描いてもらった作品も展示されています。 榛名湖畔より榛名山を見ていると、夏に咲く月見草、秋の紅葉が浮かんできます。
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所在地:〒377-0100 群馬県北群馬郡伊香保町544−119 Tel:0279-72-4788 |
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竹久夢二伊香保記念館 公式HP |
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