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東京都世田谷区 |
長谷川町子美術館 |
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1994年12月 |
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今回は、桜新町のサザエさん通りにある長谷川町子美術館と桜並木の一角の閑静な住宅街にある「ギャラリ−松本かつぢ」を紹介します。 東急新玉川線の桜新町駅の南口を出て左に行くとすぐのところにサザエさん通りがあります。そこを左に曲がって100mほど行くと角に交番がある三つ角に出ます。右側の方に行くと50mほどのところに長谷川町子美術館があります。駅から7分ほどです。三つ角を左側の方に行くと「ギャラリ−松本かつぢ」に行くことができます。 長谷川町子美術館は、「サザエさん」で有名な漫画家の長谷川町子がお姉さんの毬子(マリコ) さんと一緒に蒐集した絵画・工芸品を展示するために1985年(昭和60年)11月3日に開館した美術館です。その後、1992年の長谷川町子さんの死去に伴い、展示内容も漫画原画や愛用品、自作の陶人形や絵画など長谷川町子ゆかりの作品も多く加わり記念館の色彩が強くなっています。名称も1992年11月より「長谷川美術館」から「長谷川町子美術館」に変更されています。 収蔵作品は、近代から現代の日本画、洋画、ガラス工芸、陶磁器など約200点です。日本画は、小倉遊亀(オグラユウキ) 、東山魁夷(ヒガシヤマカイイ) 、加山又造など、洋画では、中川一政、林武、藤田嗣治やピカソ、ルオ−、シャガ−ル、ユトリロなど、画家を志した毬子さんと一緒に集められただけあって、素晴らしい作品ばかりです。個人の美術館でこれだけ素晴らしい作品が揃っているところもめずらしいと思います。 長谷川町子は1920年1月30日佐賀県多久市に生まれています。三人姉妹の真ん中で、お父さんは、三菱炭鉱の技師から独立してワイヤロ−プの仕事をしていました。ハンサムで癇癪もちでしたが、非常に家庭を大事にした子煩悩なお父さんでした。でも、1933年に亡くなってしまいます。翌年、お母さんは、16歳の姉の毬子さんと8歳の妹の洋子さん、そして14歳の町子さんを東京で教育しようと世田谷に移ります。お母さんは、姉の毬子さんに命じて町子さんを荻窪の「のらくろ」の漫画で有名な田河水泡に弟子入りさせます。毬子さんも藤島武二画伯に弟子入りし、芸大の登龍門である川端画塾に通います。長谷川家はキリスト教でした。この影響で田河水泡夫妻もそろって洗礼を受けています。 1944年に福岡に疎開し、西日本新聞社絵画部に入社します。そして「サザエさん」を夕刊フクニチ(西日本新聞社)に連載します。その後、再び東京に戻り、世田谷に家を買い、姉の毬子さんと「姉妹社」を設立して、「サザエさん」の初版本を発行します。刷った2万部は取り次ぎ店に全てはけたので、2万部を増刷しますが、B5の横とじであったため、店に置きにくいと全部返品になってしまいました。そこで、2巻目は、B5版横綴じをすすめた出版社に掛け合って資金を借り、B6版にして出版します。この2巻目の成功により、1巻目も潮が引くように倉庫から無くなっていったとのことです。週間朝日や朝日新聞夕刊の連載をへて1951年朝日新聞の朝刊に連載を開始します。その後「エプロンおばさん」「いじわるばあさん」などをサンデ−毎日に連載します。1982年に紫綬褒章を、1990年には、勲四等宝冠章を受賞しましますが、1992年5月27日世田谷の自宅で亡くなっています。死後、国民栄誉賞を受賞しています。 長谷川町子の先生の田河水泡も締切が迫るのにどうしても案が出ない時は、首が吊りたくなると言われていたそうです。長谷川町子は2年に1回ぐらいの周期で自分はこれでよいのか、もっと他に才能があるのではないか、惰性で生きているのではないかとの深刻な迷いが生じたとのことです。漫画を辞めて、紙、ペン、筆、物差し、ハケ、参考書をズタズタにして火をつけて燃してしまい、自由な身となり、紙ねんどで人形をつくったり、刺繍をしたり、縫いぐるみをつくったりしますが、半年くらいすると浦島太郎のように我にかえるそうです。 (ギャラリ−松本かつぢ) 交番のある三つ角を左の方に行き、国道246号の玉川通りを横切ると桜並木が続きます。500mほど行ったところを右に曲がると左側にしゃれた白い建物があります。ここが1994年の5月に開館した「ギャラリ−松本かつぢ」です。戦前、戦後にかけて、少女雑誌の挿し絵や漫画で人気をはくした松本かつぢの作品が展示されています。明るくモダンな画風は、当時のザラザラの紙のペ−ジの中から、溌剌とした魅力をふりまいていたと言われています。人物の動きとその軽快なペンのタッチと洗練された色彩感覚に特徴があります。愛くるしいヒロインが活躍する「くるくるクルミちゃん」という少女漫画が、当時の少女たちの圧倒的な支持を得て、爆発的な人気があったということです。 「ギャラリ−松本かつぢ」は松本かつぢの四男である賢氏の住まいの2階に設けられたもので、展示室には、およそ80uの空間があてがわれています。外光をふんだんに取り入れた室内に松本かつぢの作品が凝縮されています。およそ500点ほどの所蔵品の中から常時200点ほど展示・公開されています。 松本かつぢは立教中学で詩人のサトウハチロ−と同級であったそうです。舎監の眼を盗んでアルバイトをしていたのが見つかって、叱責されたのが機縁となって、当時の担任で英文学者、児童文学者の吉田甲子太郎の紹介で雑誌の挿絵を描くようになったということです。 かつぢの抒情画は、思春期の少女ファンから熱烈に歓迎されましたが、やがてユ−モラスな連続漫画も手懸けるようになります。その皮切りになったのが、「少女の友」に連載した「クルミちゃん」です。さらに絵本の分野に進出し、領域を広げ、幼児を対象とした童画へと移りながらも、明るさと可愛らしさを追求する姿勢は、一貫して変わらなかったといいます。その後コマ−シャル・デザインにも進出して、かつぢプロダクションを起こして、ベビ−寝具からベビ−食器など、さまざまなインテリア・デザインを手がけ、時代に即応する意欲をしめしました。 チャキチャキの江戸っ子の奥さんとの間に7人の子供がおられます。松本かつぢを師と仰いだ田村セツコさんは、「お子様は、クルミチャンや、エレンやケティお嬢さんの絵とそっくりの面ざし」と言っておられます。モデルは子供さんであったのかもしれません。 長谷川町子とは生前親交を結んだといわれています。「ちびまる子ちゃん」の漫画家さくらももこさんも「クルミちゃんの大ファンだった」とのことです |
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所在地:〒154 東京都世田谷区桜新町1−30−6 Tel:03-3701-8766 |
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長谷川町子美術館 公式HP |
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